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  • 公開日:2024.08.15
  • 最終更新日: 2025.03.06
戦後79年 沖縄・竹富島の持続可能な暮らしは、旧日本軍兵士と島民の交流が萌芽に?

依光 隆明(よりみつ たかあき)

竹富島の海に浮かぶサバニと呼ばれる木造の伝統漁船

沖縄県南端、八重山列島の竹富島は自然の美しさと緩やかな時間の流れ、コンクリート構造物の少なさで人気を集めている。美しさを守る砦(とりで)となっているのが1986年に地元公民館が制定した「竹富島憲章」だ。そこには、海や浜辺、集落など島全体を汚さない、美観を広告、看板で乱さないなど、島の暮らしの持続可能性を高めるための、確固たる決まりが並ぶ。

サステナブルといった言葉も概念もない時代に、そのような憲章はなぜ定められたのか? その源流をたどると意外な存在が見えてくる。激しい地上戦があった沖縄では旧日本軍に対する反発が強いのだが、竹富島は違う。当時の島民に「自治」や「民主主義」の種をまいたのは、実は旧日本軍かもしれないのだ。79回目の終戦の日に、兵士たちと島民の交流のストーリーを届ける。(依光隆明)

終戦末期に「娯楽会」。島を守った“いごっそう”隊長

上勢頭亨が建立した「大石隊戦没者慰霊之塔」

竹富島に「大石隊戦没者慰霊の塔」がある。沖縄が日本に復帰する2年前の1970年、民俗学者で僧侶だった上勢頭(うえせど)亨(1910~1984)が建立し、その後も地元の人たちが慰霊祭を続けている。大石隊というのは陸軍独立混成第四十五旅団独立歩兵第三百一大隊第一中隊のことである。高知県の兵士を中心とする約150人の隊で、中隊長は2008年に98歳で亡くなった大石喬(たかし)。1944年9月、この中隊が守備隊として竹富島に配属された。

竹富島守備隊を率いた大石喬

軍隊の中で大石はかなりの変わり者だった。野党系(大政翼賛会不参加)の衆議院議員として存在感を示した父を持ち、高知の旧制中学から明治大学に進学、雄弁会で鳴らしたあと「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門の東邦電力に入社した。

24歳で高知市の陸軍歩兵第四十四連隊に入営、幹部候補生試験に合格して予備役に。その後3度にわたって召集され、中尉で竹富島守備隊長になったときには30代の半ばだった。

変わり者というよりは、高知の方言で、頑固で気骨のある男を意味する“いごっそう”と言ったほうが適当かもしれない。大学時代はストライキをして警察に拘束され、父の友人だった政治家でジャーナリストの中野正剛に身請けされたこともある。軍隊に入ったあとは上官の前で新兵に「服従と盲従は違う。盲従するな」と演説した。このときはさすがに軍法会議ものだと自覚したらしい。

竹富島に渡った際も、いごっそうぶりは発揮された。旅団司令部から島民を西表島に疎開させよという指示が下りてきたとき、大石は「住民の自由意思に任せるように指導したい」と意見具申して認められる。西表島はマラリアが猛威を振るっていたからだ。命令通りに強制疎開させられた波照間島は1600人の島民のほとんどがマラリアに罹患(りかん)、うち3割が亡くなる悲劇を生んだ。対照的に竹富島の罹患者は数パーセントだった。大石は手記に「死者はゼロだった」と書いている。

中国大陸の部隊にいたとき、大石は上官から「地元民を甘やかしすぎる」と怒られたことがある。竹富島でも大石は住民との交流に力を注いだ。特筆すべきは戦争最末期の1945年4月ごろ、島に「娯楽会」を作ったことだ。毎日曜、3軒単位の家に兵隊と国防婦人会、女子青年会が訪問して午後のひとときを楽しく過ごす。隊から砂糖と小豆を供出し、ぜんざいを作り、歌を歌ったり、トランプをしたりした。島民と一緒によさこい節を歌った話、島の踊りを習った話なども伝わっている。当時、島の小学校長で、戦後に石垣市長を務めた桃原(とうばる)用永が著した『戦後の八重山歴史』には以下の記述がある。「竹富の駐屯部隊はなじんだ。私は、今でも高知の兵隊さん達が、お正月だったと思う。土佐の『ヨサコイ節』を歌いながら家々を廻り歩いた情景を思い出している」 。戦後のことを考え、大石はヤギ、牛、豚、鶏の屠(と)殺食用禁止命令も出していた。

皇国史観の青年に「民主主義」を説く

戦後80年が近い、竹富島の風景。手つかずの自然に囲まれ、緩やかな時間が流れる

1945年8月15日の終戦直後、竹富島では青年団報が発行された。桃原校長が発想し、「竹富青年団文化部」の名で10月に1、2号、11月に3号を出している。大石は隊が持っていた紙と謄写版を提供し、専任の兵士も1人つけた。団報2号には大石自ら「青年に対する提唱」という文章を書いている。

大石が強調したのは民主主義だった。「青年の武器は情熱であり、実行力である」と前置きし、大切なのは「国体護持の精神であり、且又これを真に透徹しむる方法論は民主主義であろう」と書いた。島民にとって敗戦のショックはすさまじく大きく、皇国史観に染められた竹富島の青年に、大石は民主主義という新たな希望を紹介しようとした。「民主主義と云うと外来思想であり国体と相反する主義の如く従来まで考えられていた傾向は相当濃厚であった。然し、日本の代々の天皇陛下は、畏くもすべて民意を基調する政治を執り行わせられたのであって名称は外来のものであっても其の実体は我国に於いては古来より存在しているもので国体と何等相反するものでないことを、特に自覚したいのである」と訴え、「眼を公的方向に向け、先ず自己の身近の問題より改善せられん事を希望する」「而してその方法は民主主義の徹底にあるのである」と結んだ。

占領軍ではなく日本の守備隊長が終戦直後に民主主義を呼び掛け、それが違和感なく受け入れられる。しかも沖縄で。ありえないようなことが実際に起こっていた。

隊の兵士が復員したあと、大石は島民に請われて1カ月ほど竹富島に残り、上勢頭亨の家に居候している。上勢頭がのちに「大石隊戦没者慰霊の塔」を建立したのは冒頭で紹介した通り。そのとき弟の昇は「『慰霊之塔』がある限り竹富と高知の縁は永遠である」という言葉を残している。

「私的な時間と公の時間が半分半分」

大石の心にも竹富島のことは深く刻まれたのだろう。高知県議会議員を務める孫の大石宗さんは、「小さなころから竹富島の話を聞きながら育った」と振り返る。1990年ごろ、小学生の宗さんは祖父に連れられ、初めて竹富島を訪れた。旧大石隊員やその家族ら20~30人が一緒だった。

印象に残ったのは「きれいな島だなあ」ということと、島の人たちの歓迎ぶり。「戦時中の関係者がまだ生きていたので、すごい数の人が出迎えてくれて。肩を抱き合い、涙を流している元兵士の人もいました」と振り返る。

宗さんが次に島へ行ったのは高校生の時、戦後50年の節目の1995年だった。このとき、ちょっとした論議があったことを宗さんはのちに知る。

「竹富島は公民館が中心なんです。島の最高公的機関というか。冗談めかして公民館長のことを大統領と呼ぶくらい公民館がすべての中心になっています。信望の厚い人しかなれません。その公民館で祖父が講演したのですが、公民館で兵隊の隊長が講演をすることに、反対意見も出たそうです。話し合った末、最終的に決行したと聞きました」

宗さんはこれまで竹富島を10回以上訪れているが、いちばんに感じるのは「自治」の精神が根付いていることだ。

「表現は難しいんですが、都会の人は自分の時間を生きている。竹富島の人は自分の時間がせいぜい半分、半分以上は公の時間を生きていると思うんです。共同作業や公的な仕事、祭り、そのようなことが半分を占め、それによって歴史が紡がれているという感じです」

そのリーダーが公民館長である。竹富島は竹富町に属するが、竹富町役場は石垣市に置かれている。だから竹富島の公的な最高機関が竹富公民館なのだ。

耕作に適さないため、竹富島の土地は安かった。そのため終戦直後から島外資本による土地買収が始まった。1950年代末、上勢頭兄弟は竹富島の乱開発に反対し、特に弟の昇は「金は一代、土地は末代」という看板を立てて土地買い占めに抵抗した。1973年の復帰直前には本土の知識人たちも徐々に竹富島に注目し、民芸運動家の外村吉之介やジャーナリストの松方三郎、陶芸家の濱田庄司、染色工芸家の芹沢銈介、陶芸家・画家のバーナード・リーチらが「古竹富島保存会」を設立する。開発か、古き良き竹富島を保存するか。竹富島は岐路に立っていた。昇は1984年に竹富公民館長となって島を守ろうと「竹富島憲章」づくりに奔走する。公民館総会で竹富島憲章案は1人の反対だけで承認された。

憲章が制定されたのは1986年。この憲章の特徴は、類を見ないほど私権を制限していることだ。それが憲法のような効力を持っている。法的な拘束力はないが、みんなで決めたから守る。極論すると日本国の民法よりも竹富島憲章のほうが強いのである。しかも本土資本にもそれを守らせている。憲章は前文、基本理念と続き、島の持続可能性を高めるための項目が並ぶ。基本原則は「売らない」「汚さない」「乱さない」「壊さない」「活かす」の5つ。そのための決まり事をほんの一部だけ挙げると、たとえば以下のような文言が続いている。

◇海や浜辺、集落など島全体を『汚さない』◇美観を広告、看板で『乱さない』◇家や集落景観、美しい自然を『壊さない』◇建物の新・改・増築、修繕は伝統様式を踏襲◇屋敷囲いは、サンゴ石灰岩による野面積み◇観光客のキャンプ、宿は禁止◇標識、案内板等は公民館の許可を得て設ける◇映画、マスコミの取材は公民館へ届け出る◇23時以降は島の平穏に努める

いずれも私権の制限を伴っている。自分たちで決めて自分たちで守るという「自治」が根付いている。加えてこの憲章は生業にも踏み込んでいる。美しい島を守るだけでは生活ができないからだ。たとえば「島を活かすために」の項では「牧畜、養殖漁業、養蚕、薬草、染織原材料など一次産業の振興に」力を入れるとうたっている。

自然と伝統を守り続ける竹富島憲章

竹富島に咲くブーゲンビリア

竹富島憲章の存在があってこそ、竹富島は古き良き沖縄の情景を今も残し、国内外の観光客を集めている。祭りの日には島内の民宿がすべて休み、つまり観光客よりも祭祀を優先する伝統も保っている。それが今も続いている。

終戦直後、大石喬が呼び掛けた民主主義が竹島島憲章につながったのかどうかは分からない。しかし戦争末期に軍が「娯楽会」を作り、終戦直後に旧軍が青年会報の発行を支援したのは事実として伝えられている。そしてその会報には民主主義を呼び掛ける大石の文章が載っている。さらに大石の屠殺食用禁止命令によって竹富島の戦後復興が早かったことも知られている。他島は家畜をほとんど食べ尽くしていたため、食糧の調達から取り組む必要があったからだ。竹富島は他島に家畜を売り、復興の原資を得ることができた。

みんなで決めてみんなで守る、竹富島憲章は直接民主主義の金字塔と言ってもいい。民主主義の金字塔に旧日本軍が少しだけ関わっているかも…という歴史の非常識を想像するだけで楽しい。

written by

依光 隆明(よりみつ たかあき)

高知新聞、朝日新聞記者を経てフリー。高知市在住。環境にかかわる問題や災害報道、不正融資など社会の出来事を幅広く取材してきた。2023年末、ローカルニュースサイトを立ち上げた。 https://newskochi.net/

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